さて、今回から中学入試における小論文(作文)について述べていきます。すでに、いくつか指摘をしてきていますが、そうした事項についても再確認しながら進めていきます。
根本的な違いというのは、国語(現代文)と小論文(作文)では問われる能力が違う、ということです。国語(現代文)は純客観の科目であり、小論文(作文)は主観を主にした科目です。
国語(現代文)については今まで述べてきたので詳しくは触れませんが、とにかく国語(現代文)は、問題文を読むのに日本語において一般的に認められている論理の筋道に従っていき、かつ、問題文の著者がどう言っているのかを答えるものであって、そこに主観の入り込む余地はありません。思考能力は非常に要求されますが、自分の考えや自分なりの読み取りなどというものは持ち出してはいけないのです。
それに対して、小論文(作文)は基本的に自分の意見を持っていなければいけないのであり、文章が与えられていてそれを読んで書くにしても、それをそのままなぞってはいけないのです。内容は一切、自分で考えなくてはいけません。これを本ブログでは「主観」と呼ぶことにします。
しかし、中学入試においては、この区別をつけるにあたり誤解が生じやすくなっています。大学入試のように「小論文」として独立した試験が存在せず、国語の試験の中で、この両者が出題されます。つまり、「
中学入試においては、国語という試験の中に、純客観を旨とする国語(現代文)という科目と、主観を主にする小論文(作文)という科目が混在している」のです。
例を見てみましょう。下記は2003年、横浜雙葉中の問題です。
大問1
問11 著者が考える「生き物の感覚」とはどのようなことですか。文中の言葉を使ってまとめて答えなさい。
問12 地球上に生きる生きものの一つとして、「人間がわきまえるべき分」とありますが、今の地球のありさまを見てあなたはどのようなことを考えますか。あなたの考えを100字以内で説明しなさい。
問11は国語(現代文)の記述問題、問12は小論文(作文)の問題なのですが、同じ大問の中に二つが混在しているため、問11で「自分の考え」を述べてしまったり、問12で「著者の意見」を要約してしまったりして、間違ってしまうことが往々にしてあるのです。
このふたつの問題の違いを理解することが最初の関門になってくるのです。
さて、ここで国語(現代文)の記述問題について少し触れておきます。記述問題で、小論文(作文)と間違えてしまいやすいのが「自分の言葉を使って答えなさい」というような問でしょう。こうした問題で「自分の言葉」にこだわり、つい、問題文とはなれて、自分の意見や感想を書いてしまうことはよくあることです。しかし、こうした問題は、「
自分の言葉を『補って』答えなさい」または、「
自分の言葉に『置き換えて』答えなさい」という意味だと考えてください。
以前、「
記述問題の対処法」において「記述問題は、設問の条件をすべて満たすように、条件一つ一つについて対応する事柄を積み上げて解答を作っていく。」と述べました。しかし、こうした場合、問題文の条件にあったところを抜き出して利用しますから、どうしても場所の離れたところにある記述をつないでいくことが必要になります。そして、もとの場所が離れているのであれば、問題文自体にそれをつなぐ言葉があるわけではありません。したがって、問題文のままにしておくとばらばらなものを箇条書きに並べてだけになってしまいます。これをうまく工夫し、「接続詞や指示語」を「補って」答えを作っていく必要があります。
また、字数制限などで、問題文中の表現をそのまま使ったのでは長くなりすぎる場合などは、端的に言い換えのできる言葉に「置き換え」て解答していくことになります。こうしたことが「自分の言葉を使って」の意味なのです。
しかし、小論文(作文)はあくまで、「自分の意見」を述べるものです。しつこいようですがこの二つの区別をつけることが国語(現代文)の成績を伸ばす第一歩です。
ここまで述べた上で、今度は小論文(作文)について勘違いしそうな点について注意しておきます。今まで、国語(現代文)の方は「純客観」としながら、小論文(作文)は「主観を主にした」としか書いてきませんでした。それは「純主観」ではいけないからなのです。
単なる主観だけで書いてしまい、人を納得させる論拠を持たないものは「勝手な意見」であって、これは月並みな意見よりも評価を受けません。「
説得力のある主観」でなければならないのです。
一つ例を示しましょう。「言葉の誤り」という課題作文での解答例です。解答者は私の一年先輩で、これを書いた当時は代ゼミの京大クラスにいました。この文章は私が知り得る限り大学受験生が書いたものとしては出色の出来で、後に私の恩師が小論文の本を書くにあたり「添削例」ではなく「模範解答」として利用されたものです。
「言葉の誤りを指摘する際の基準は、文法や先例に求めるより、まず第一にその言葉が一定の意味を確実に伝えているかどうかという点に置かれるべきだ、と思う。例えば「見れる・来れる」といった言葉は少々ものを知った人々には嫌な響きを与えるだろう。これらは確かに現在の文法では誤りであり、文章に書かれた前例も少ないからだ。しかし、「見れる・来れる」は日常の主に音声による言語生活においては、実際に人々の常用する言葉である。そこではおそらく、「可能」としての意味以外に誤解されることはないだろう。いや、むしろ「見られる」などとした場合にかえって、「受身」や「尊敬」として誤伝達されるおそれも出てくる。こうしてみると、「見れる・来れる」は昨今誤った言葉として問題化しているものの、実際の伝達機能において何の支障もきたしていないことがわかる。
以上の例にもみられるように、言葉の重要な役割のひとつである伝達機能が損なわれていない限りは、むやみに言葉の誤りを問い正す必要はないように思われる。また、一見誤りとされる言葉の中でも、むしろ実際上の利便を与えているものは積極的に評価すべきではないだろうか。
この意見は、「見れる」などを、普段自分たちが使っているのにどうして誤りだと言われるのかという疑問ないし反発からきていると思われますが、それを感情的に「何故いけない」とムキになって書くのでなく、「伝達機能における正確さ」という非常に説得力のある論拠を与えているところが素晴らしいのです。
こうした意見は、小学校の先生は(公立中高の先生も)「屁理屈」として嫌う可能性が高いですが、私立中高一貫校の先生は必ず評価してくれるはずです。(大学の教官ならほぼ100%評価してくれます。)逆に「言葉の誤りを正して正しい日本語を使うように努力したいと思います」などというのは何の意味もない意見です。大学入試であればマイナス評価にしかなりません。中学入試ではマイナス評価になるとまではいいませんが「月並みな意見」として「決して」プラスの評価になることはありません。
これから、なぜ、そうした評価になるのか、そして、小論文(作文)の勉強はどうしていけばいいのか述べていきます。ただし、再確認しておきますが、小論文(作文)は「何を」書くかは教えられないものです。あくまで「自分の意見」を書くものですから。「どのように書くか」ということと、書くべき「何か」をどうつかむかのヒントを与えるのが本ブログの目的である、という点は忘れないでください。